昨日、今日は気分が優れないので、自宅で療養している。
(この療養と言う感覚は大事だ。)
昨日は夫が仕事だったので、一週間分の家事をしようとヨロヨロと立ち上がったのだが、台所に、だいぶ前に私が夫に食べさせたスパゲティーを、ソースと和えたナベが洗わずに残っていて(洗い物は夫の仕事:食洗機あり)、なんだか無性に腹が立ってきたので、一切家事はしないことにした。うちの決め事としては、土日休みの方が家事をする、ということになっているのだが、夫がずーっと土曜日に仕事が入っているので、ずーっと私が家事をしている。仕事と家事のどっちが楽かと言われたら、そりゃあ家事だが、でも続くと腹が立ってくるもんだ。
うちの夫は優しい人なので、今日は中心になって掃除と洗濯と洗い物をしてくれた。その後夫は,東京転勤になった同期の送別会に出かけていった。調子が悪い私を前に、行くかどうか迷っていたようだが、私は「ニャムだったら絶対約束を優先する。でもなるべく早く帰ってきてね」 と、しおらしいといえばしおらしい声をかけて送り出した。
先ほど電話が入り、酔っ払いすぎて電車を乗り過ごし、知らない駅で降りてしまったと言う。
調子がよければ愉快と思えるような行動も、調子と機嫌が悪いと、ただただ腹が立つばかりだ。
今、けっこう腹を立てながら、バンバンキーボードを打っている。
嫌なことは続く。こういうときはじっと膝を丸めて、悪い運気が通り過ぎるのを待つのが一番だ。
というわけで長い前置きだったが、「ぬしさまへ」と「アヒルと鴨のコインロッカー」を読んだ。私は調子が悪い時は、膝を丸めて本を読むのだ。
(調子がいいときはエバって読む)
両方とも、今本屋に行けば平積みされたベストセラーだ。「ぬしさまへ」は、「しゃばけ」という時代物ファンタジーシリーズの第2巻なんだけど、すごくキャラクターが立っているので、私がこの世界に入り込んだとして…、という妄想に浸りやすくて楽しい。ファンタジーは子ども向きかオタク向きが多い中、これはよかったと思う。おすすめ。
「アヒルと・・・」は、伊坂幸太郎だ。すごくテンポがよくて、スタイリッシュな感じのミステリーだ。「陽気なギャングが地球を回す」を読んでから、ぽつぽつ買い集めている。ちょっと悲しいお話だったので、読み終えて悲しい気分になってしまった。
ところで昨日本屋に行った時、「人は何故、日記をブログにさらすのか」という、嫌な題の本があった。
そんなの決まっているじゃないか、人に何かを伝えることはそもそもある種の人間にとって快楽であり、かといっていつも誰かを捕まえたり電話かけたりはできないからだよ!!
と心の中でつっこみをいれて、その本は買わなかった。
書店に行くと、発達障害関連の本が溢れている。いい本もたくさん、いまいちの本もまあまあ、トンデモ本も未だにある。
『自閉症を克服する』は、ケーゲル夫妻(その道では有名な人)の妻の方が書いた、ABA(応用行動分析)の本だ。
最近聴きに行った講演会で、PRT(Pivotal Responce Training)というのがABAの中で流行っていると聞いて、じゃあ、その本を読んでみようと思って購入した。
こういうきっかけがないと、なかなか『自閉症を克服する』なんて題の本は買わないのだ。だって”克服する”という言葉に、非科学的な臭い(うさんくさいともいう)がプンプンするから。
かつて(今も?)ロバースという人が、早期に徹底的な行動療法を行なうことで、自閉症を治す、と言って、大論争を巻き起こした。自閉症を治すというのは明らかに言い過ぎだった。
彼らは治したと言っているが、自閉症に限らず発達障害は自然な成長の経過で軽くなることがあるし、単にIQが上がったとか、あるいはカナータイプがアスペルガータイプに変わったことを指していることもあるからだ。
で、最近流行のPRTはどうなんだ、と。ロバースとどう違うんだ、と。
確かに、ロバースより柔軟になっている。参考になるアイディアもたくさんある。
が、しかし・・・。
行動に介入し、変化させる。
変化させる=治療する=定型発達に近づける。
ABAとはそもそもこういうものなのかもしれない。
著者は堂々と、きっぱりと、あまりにも遠慮なく、読み手の親に「○○しなさい」とメッセージを送る。
「○○すれば、子どもはきっとよくなる」と。
親はがんばってがんばってがんばって、子どもにどんどんどんどん介入して、そしたら子どもはきっと良くなる。あなたの子どもの脳みそに、いい神経回路を伸ばそうじゃないか!!と。
行動療法のアイディアはかなり役に立つ、それは間違いない。ある程度、神経回路も伸びるだろう。
ABAがしっくりくる親子がいることも分かる。
でも、やはり認知特性に配慮することや、自閉症文化の尊重(違いを認める)を組み込んだ療育の方が、理にかなっていると思う。得意を生かすこと、違うことを認めることは、ついでにではなく、最初から最も配慮されるべきことだろう。
(この間アフリカに行ったときにも思ったのだが、最近のABAは、認知特性に対してやや配慮するのだ。)
この『自閉症を克服する』は、いろいろ分かっている人が、アイディアを借りるために読むにはいい本だが、初心者にはお勧めしない。
今日は史上最強の片思い漫画、『ハチミツとクローバー』の最終巻を読んだ。『ハチクロ』は、登場人物全員が片思いをしているという、なんとも甘酸っぱくてしかたがない恋愛漫画だ。見てはいないが映画にもなった。
最終巻、私としてはちょっとびっくりする展開があったけど、恋の実った人、片思いのまま終わった人、それぞれ納得のいく結果だった(笑)。
実際、片思いには片思いのよさがある。結婚して5年も経った今となっては、片思いが実らなかったこともまた良き思い出である。
片思いのいいところ:空想が膨らむ。何かと修行ができる。自由に時間が使える。鏡のように自分が見える。
一昨昨日、たまたま職場の漫画好きな若い”メガネ男子”と話した折(ちなみにメガネ男子、というのは今そういう題名の本も出たりしていて、流行っている言葉。ハチクロにはいい感じのメガネ男子が何人か出てくる)、この漫画の話が出た。「甘酸っぱさがいいですよね~」と言っていたので、もっと掘り下げて感想を聞いてみたいところだが、大事な会議の前で時間がなかった。
若い男子はあれをどう読むのか、1時間位かけて詳しく聞いてみたいところだ。
ハチクロでは、30代の登場人物も多く、大学生の主人公たちからは「大人組」と思われている。
「大人と子どもの違いは、子どもは大人を何でも知っていると勘違いしているところ」、というような感じのことを、メガネ男子の1人が言っていたなあ。なかなかいいことを言う。
作中の大人たちは、若者をみてやたらと懐かしがったり、甘酸っぱがったりする。それは読者の照れを軽減するための配慮の部分もあるだろう。
(それでも乗り越えられない人は恥ずかしくて読めない漫画。)
別に片思い自体は若者の特権ではないが、大人がすると甘いが抜けて、ちょっと酸っぱい感じがする、なんていうといろんな人に叱られそうだ。
2週間居候していた後輩が帰り、夫は午前はサッカー、午後は友人の結婚式の二次会の打ち合わせに出かけたため、久しぶりに一人ぼっちで過ごしている。
とりあえず何か読もうと思って、本屋に行きウロウロするが、なかなか読みたい本が見つからない。
かなり長い時間ウロウロしたのち、今日のタイトルにあげた
「性別がない!」新井祥著 を発見。
半陰陽の漫画家が、私生活を面白おかしく4コマ漫画にしている。著者の友人や恋人はセクシャルマイノリティーの人が多く、その人たちの話も読んでいてとても楽しい。
実は有名ブログの「オカマだけどOLやってます」は、ほとんど毎日欠かさずチェックしているし(性同一性障害の方のブログ)、基本的に自分は、知らない世界を知りたいという”好奇心”から読み物を選んでいると思う。
私は今のところ、半陰陽の患者さんには会ったことがないし、様々なセクシャルマイノリティーの患者さんの診察もしたことがないし、はっきりセクシャルにマイノリティーだと知っている友人知人もいない。
もしセクシャルマイノリティーの患者さんとして診るとして、精神科医の前に現れるということは患者さんは何かを苦しんでいるわけだ。困ったことがなければ精神科医には用がないだろうから(戸籍を変えたりするために性同一性障害の診断などが必要であるといった”用事”があることを別にして)。
想像するに、患者さんの抱えている苦しみには
「マイノリティーであることの痛み」
というものがあるのではないだろうか。つまり人と違うことの痛み。今差別を受けてうるといった直接的な被害ではなく、過去の経験やその他内的に湧き出てくるもの。
セクシャルマイノリティーに限らず、ありのまま、そのままの自分でいることを前向きにとらえることは、いろんな診療場面で共通して患者さんに伝えたいことだ。
最後に。
一般市民としての私は、強すぎる好奇心で人を傷つけないようにすることが課題のひとつ。
本を書いている人にとっては、自己開示することが何かしらの意味を持っているのだろうけど、多くのマイノリティーの人たちは、好奇心にさらされること自体が辛いはずだろうから。