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裏日記
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難解な映画を見ると、監督からの挑戦状を叩きつけられたような気分になります。
いや、別に、「ジルバの音楽良かった~」という感想でもいいと思うのですが、私はこんな風に考えてみました。(シェイクスピアのテンペストを読んでいないので、誤解もあるかもしれませんが…。)

この映画は、対極的な存在を同時に描いているのがとても特徴的で、新しいものと古いもの、自然と人工、西洋的なものと日本のものを、あえて渾然一体化させています。
そもそもが、能の歌詞をロックにすることがコンセプトだったらしいのです。

伝説の歌を歌うと、島に嵐が来て、冬が来て、春が来ます。
研究者である父は嵐が呼べず、娘(ミランダ)には呼べたのはなぜでしょう?主人公であるジュントクはどうして春を呼べたのでしょうか?
そもそもなぜ、音楽が季節を呼ぶのでしょうか?そしてなぜ、春が来ることは「鬼のいる世界」への回帰なのでしょうか?

私は娘は無垢なる存在だったから嵐が呼べたのだと思うのです。そしてジュントクが春が呼べたのは、やはり無垢なる存在だったからなのでしょう。ジュントクは佐渡島に流された順徳天皇の名前を持っています。日本人にとって天皇は無垢なる存在の象徴とも言えます。
新生には破壊が必要、つまり春を呼ぶためには冬が必要で、ミランダが冬を読んだからこそ、ジュントクが春を呼べたのかもしれません。

無垢とは対極の、欲望を具現化したような存在の牢名主も歌うところも面白いです。
「限りない無垢と限りない欲望をも飲み込めるのが音楽だ」といいたいのでしょうか?音楽の起源は本能的なものだと思うのですが、歌は言葉という意味を乗せられるから、無意識と意識のどちらにも響きますよね。(とはいいつつ、能の歌詞は耳から聴いても意味がわからなかったけど…)

鬼のいる世界は自然との共生を意味するのでしょうか。子育てしていて思い知らされるのですが、子どもの生きる世界には、まだまだ鬼も天狗も河童もいるんです。だから鬼は自然のアイロニーでありつつ、やはり無垢さを意味するのかもしれないです。

垢まみれな世の中だけど、無垢の力を信じ続けたい、というのが私が最終的に受け取ったメッセージです。
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