もうすぐ、うっかりパネラーをひき受けてしまったユースシンポジウムがやってくる。課題がある若者をどう支えていくか、というのがテーマで、私は発達障害の専門家として呼ばれている。
確かに発達障害は今の仕事のメインであるけど、パネルディスカッションなんてやったことないし、それが現代の若者全般の課題とどう関わってくるのかも、すごく難しい問題だし。
パネルディスカッションをじっくりした後、さらに分科会なのだ。うっかりひき受けるんじゃなかった。全くもって、うっかりな私にがっかりだ。
パネリストは最初、掴みに10分話をするので、原稿を作ってみた。
聴衆は若者に関心が高い一般市民。
よろしければ、みなさんもご一読&コメントをよろぺこ。しゃべり原稿なので、日本語表現がおかしいとか、繰り返しが多いとかはあまりお気になさらないで♪
ちなみに昨晩夫に「目的が分からない」「表現が分かりにくい」とかなりダメだしをくらい、修正しましたが、修正後の原稿を見せようとしたら寝てて、アドバイスしてくれてた後半も寝言だったんじゃないかと言う疑惑も湧いてきたわけであります。
こんにちは、私は某所で精神科医をしているニャムと申します。シンポジウムは「ユース」が対象であって、私が普段診察しているのは、2つ3つの幼児さん、小学生など子どもが中心なんです。でも、某所では18歳までが診療対象ですから、中学生高校生と「若者」も診察しています。普段は、発達障害、虐待関連、子どもの神経症などを診療しています。私はあまり若者全般のことは詳しくないですが、発達障害や精神疾患という窓を通して若者のことを見て行きたいと思っています。
発達障害とは何か:生まれつき定型発達の人とは違う発達の仕方をしていく(スピード、量、ベクトルが違う)人たちのことで、発達「障害」、というからにはその特性のために困りを感じている人たちのこと、と定義させていただきます。
発達障害には、精神遅滞、自閉症スペクトラム、ADHD、学習障害、それから運動発達の障害も含まれます。私は精神科医なので、運動発達の遅れに関しては専門外ですから、今日の話からは除外させてもらいますね。
最近よく話題になっているのは、精神遅滞以外の発達障害ですよね。
精神発達遅滞は今までも支援の対象として教育や福祉の分野で配慮されてきたけれど(療育とか、年金とか。十分じゃないけど。)、知的な遅れのない発達障害の人、つまり自閉症で知的障害のない人だとか(高機能自閉症といいます)、ADHDの人に対しては、教育や福祉施策ほとんどなんにもありませんでした。これではいけない、と、草の根的な活動も積み重なり、本やTVでの紹介も増え、発達障害者支援法もでき、今、まさに時代が動いている、そんな状況だからだと思います。
私たちが「性格」と呼んでいるものがあります。よく患者さんの親御さんなんかに、私が発達障害の障害特性だな、と思うようなことを「うちの子こういう性格なんです」と説明されることがあります。
例えば、診察室で一言もしゃべられなくなっちゃった、としましょう。
ご両親はシャイな性格だからしゃべられない、と考えている。こちらは、あ、コミュニケーション障害があるのかな、と考える。
で、性格ってなんなのかな、と、いつも悩むんですが、今私が考えている定義は、「その人の持って生まれた特性と、環境からの相互作用で、年月をかけて形作られる、感じ方や表現の仕方の個性」です。だから、障害特性も、性格を形作る1つの要素ではあります。
さっきのしゃべられないお子さんの例えにもどると、シャイだから慣れるまでのんびり待とう、というのもひとつの考え方だけど、コミュニケーション障害として捉えて、必要なツールの利用を考えたら、すごくその子のメリットになるかもしれないんです。
ひとりひとりが違う人間なのにわざわざ診断したり、性格でもいいじゃないかと思うところをわざわざ障害特性と説明する、なぜ? それは結局、支援に結びつけるきっかけだからかな、と思っています。
医者の仕事は、診断し、親御さんやご本人や、学校の先生などご本人をとりまく方たちに、「コツ」をお伝えすることですし、「コツ」をつかむために障害特性を理解していただくことのお手伝い、と思っています。
そして実際にご本人と一緒に生活しているみなさんは、コツを生かして、ご本人に必要なことを教えてあげたり、環境を整えたり、もちろん本人を理解し受け止める、ということが支援ですよね。
周囲にずっと否定され続けて生きてきたのか、それとも正しく評価され、必要なことを教えてもらいながら生きてきたのかでは、その先も全然違う人生になると思うのです。
持って生まれ、生涯持ち続ける「特性」と、生れ落ちてからの人生で色々経験し「学習」して身につけていくこと、そのどちらも配慮することが大切だと思っています。
発達障害の人というのは少数派ですから、多数派にフィットするように作られた世の中で苦労している人もいます。
例えば学校。学校は、みんな同じ教科書を用いて、みんな同じ給食を食べて、みんな同じ服を着て、みんな同じ歌を歌って、と、同じことをするのが最も多い環境かな、と思います。みんなと同じ授業では分からない子、みんなと同じ給食が食べられない子、みんなと同じ服が着られない子(これ、ほんとにいるんです。発達障害の人の中には、感覚過敏っていって、ほかの人には全く問題ない感覚が、ものすごく不快で、パニックになっちゃう人もいるんです)、がいるわけです。すると、やっぱりとっても大変ですよね。外国に一人ぼっちで放り出された感じに似ているのかな、とよく例えたりします。
違う、違う、と思いながら、必死で合わせて大きくなった人もいるし、どうしてみんなとおんなじにできないんだろうって、すごく悩んでいる人もいるし、阻害されて傷つけられてしまう人もいる。
もちろん、違うんだけど、それが尊重されて生きてきて、特に困ることなくハッピーに暮らしている人もいると思いますよ。
一番いいたいことは、同じように見えても実はいろんな人がいるということで、みんなが一緒じゃなければいけない、ということにどうぞ縛られず、自分の脳にやさしく、というか、違ってもいいんじゃないかな、と思ってみてほしい、ということです。せっかくユニークなタイプに生まれてきたのだから、それを評価もし、ありのままの自分を好きでいて欲しい、ということです。よりハッピーに生活するために、必要な支援を受けたり、ツールを利用したりすることができるといいな、と思っています。
今日は職場の心理士さんたちと一緒に、記念日系レストランにお食事に行きました。記念日系レストランと言うのは、私が今作った言葉です。字義通りに解釈してください。
女3人で楽しくお食事をしていたら・・・
舞妓さんがあの舞妓姿で現れ、ちょこんとカウンターに座ったのです(そのお店はカウンターしかない)。
うわー舞妓さんだ!舞妓さんなのにお客さんだ!
と、内心私は驚いていたのですが、みんな大きな反応を示しません。だって私は祇園にいたから。
お客もみんな京都人なのでしょう。
やはり私はよそ者であります。はっきりいって、写真撮りたかったよ。でも我慢したよ。
しばらくすると、金持ちそうな、遊んでそうな、チョイ悪そうな親父が現れ、一緒に食事をしておりました。
毎日生きていると、なにかしら面白いことはあるものです。
ちょっとした気分転換、ちょっとしたストレス解消に、ちょっとしたお買い物はいかがでしょうか。
昨日、ほとんど聞いたこともないのに「スガシカオ」のCDを買いました。CDも売っているいつもの本屋さんで、文庫本と一緒に購入。スガシカオがどんな歌を歌っているのかなんて、全然知らないし、どんな声かもしらないけど、BESTが売っていたので。
「スガシカオ」をかけていると、我が家じゃないみたい。
みなさんも、普段全然聞かない曲を家でかけてみてください。
そこは一瞬で知らない人の家になります。
付き合い始めの彼のおうちに行った気分になります。「ふーん、スガシカオ聞くんだ」みたいな(笑)。
あと、もう1つのささやかなお買い物ですが、さらにささやかになります。
今日久しぶりにものさしとボールペンを買ったんです。医者になってからというもの、文具は薬屋さんにたくさんもらうから、もう一生分ぐらいボールペンは家にあるわけですが、今日はエリック・カールの「はらぺこあおむし」シリーズの文具を発見してしまったのです!
「はらぺこあおむし」はみんな大好きですよねぇ。
ホントに久しぶりにものさし(広島では「さし」っていうんですよね)とボールペンを買って、なんかこう、なんかこう、小学生に戻ったようなウキウキ気分になっちゃうんですけど。
実はキティーランド(!)で、中高生に混じって、相当悩んで数百円の買い物しちゃったんですけど。
「はらぺこあおむし」なら、ガンガン医学判定書とサマリー書けちゃうような気がしちゃうんですけど(ウソ)。
ストレスで胃を荒らした夫にガスターをぶっこみながら、自分のストレスマネージメントばかりしている私でありました。
昨日、今日は気分が優れないので、自宅で療養している。
(この療養と言う感覚は大事だ。)
昨日は夫が仕事だったので、一週間分の家事をしようとヨロヨロと立ち上がったのだが、台所に、だいぶ前に私が夫に食べさせたスパゲティーを、ソースと和えたナベが洗わずに残っていて(洗い物は夫の仕事:食洗機あり)、なんだか無性に腹が立ってきたので、一切家事はしないことにした。うちの決め事としては、土日休みの方が家事をする、ということになっているのだが、夫がずーっと土曜日に仕事が入っているので、ずーっと私が家事をしている。仕事と家事のどっちが楽かと言われたら、そりゃあ家事だが、でも続くと腹が立ってくるもんだ。
うちの夫は優しい人なので、今日は中心になって掃除と洗濯と洗い物をしてくれた。その後夫は,東京転勤になった同期の送別会に出かけていった。調子が悪い私を前に、行くかどうか迷っていたようだが、私は「ニャムだったら絶対約束を優先する。でもなるべく早く帰ってきてね」 と、しおらしいといえばしおらしい声をかけて送り出した。
先ほど電話が入り、酔っ払いすぎて電車を乗り過ごし、知らない駅で降りてしまったと言う。
調子がよければ愉快と思えるような行動も、調子と機嫌が悪いと、ただただ腹が立つばかりだ。
今、けっこう腹を立てながら、バンバンキーボードを打っている。
嫌なことは続く。こういうときはじっと膝を丸めて、悪い運気が通り過ぎるのを待つのが一番だ。
というわけで長い前置きだったが、「ぬしさまへ」と「アヒルと鴨のコインロッカー」を読んだ。私は調子が悪い時は、膝を丸めて本を読むのだ。
(調子がいいときはエバって読む)
両方とも、今本屋に行けば平積みされたベストセラーだ。「ぬしさまへ」は、「しゃばけ」という時代物ファンタジーシリーズの第2巻なんだけど、すごくキャラクターが立っているので、私がこの世界に入り込んだとして…、という妄想に浸りやすくて楽しい。ファンタジーは子ども向きかオタク向きが多い中、これはよかったと思う。おすすめ。
「アヒルと・・・」は、伊坂幸太郎だ。すごくテンポがよくて、スタイリッシュな感じのミステリーだ。「陽気なギャングが地球を回す」を読んでから、ぽつぽつ買い集めている。ちょっと悲しいお話だったので、読み終えて悲しい気分になってしまった。
ところで昨日本屋に行った時、「人は何故、日記をブログにさらすのか」という、嫌な題の本があった。
そんなの決まっているじゃないか、人に何かを伝えることはそもそもある種の人間にとって快楽であり、かといっていつも誰かを捕まえたり電話かけたりはできないからだよ!!
と心の中でつっこみをいれて、その本は買わなかった。
自分は仕事が好きだし、もともと真面目な性格もしているから、仕事に分類されたことに対しては、社会人として求められているラインは超えていると思う。
しかも「ひらり」と超えていると思う(と信じてる)。
でも仕事以外のことに関しては、ぐうたらだ。
例えば、23日に提出しておかなければならなかった「印鑑証明」を、まだ取りに行ってもいない。幸い私の住んでいるT市は土曜日にもOKなので、今日は何としてももらいに行かなければならない。でも、印鑑証明を発行するカードが家に2枚あって、どっちが私のかは分からないという、もう1こ超えなければならないハードルがある。
仕事の一環として参加している、やたらと忙しくなってきたユースサービスの委員会。「社会参加は仕事のみ」の私としては、最近の若者話=耳の痛い話だ。
例えば最近の大学生は「市長って誰?」という感じだ、もっと政治にも興味をもってもらわないと、なんて話しがでる。
「よかった。市長の名前ぐらいは私知ってる。え、違う!!Mは職場のK市の市長やん。T市の市長は知らんわ。」と、背中に冷たい汗が。
因みに今HPで調べたら、市長はOさん。名前にはちゃんと見覚えがある。要は、情報自体には接しているが、大事な情報として分類されていないから、頭の中に使える形で入っていないのだ。
ほんとに、仕事がらみでしか社会参加出来ていないんだなあ、と思う。
私は仕事がなくなると、社会から切り離されてしまうタイプなんだなあ、とも思う。
患者さんを療養のために仕事を休ませるのは必要なことだけど、ちゃんと社会参加の機会を探らないと、自己評価が下がりそうだよね。
もちろん、段階的に!!!だし、どこをゴールにするかもケースバイケースだけど。
ある人には頑張れと言い、あるひとには頑張るなと言う。
それが臨床ってヤツです・・・。