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裏日記
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日々の観察の中で、ふとある現象に気がつくことがある。

その現象が何度か続くと「法則」のように感じるが、その法則は単なる「印象」「主観」の域を超えない。

でも、その法則が成り立つ理由はなんだろうと思いをめぐらせて、仮設を立てるのはとても面白いのだ。

証明する努力を何もしていない仮説を、とりあえず「バ仮説」と呼ぶことにする。(もうちょっと洒落た名前が思いついたら変えるけれど)あえて説明する必要はないと思うが念のため、「バカみたいな仮説」でバ仮説である。

巧妙な説明に、信じる人がいるといけないから(笑)、バ仮説を書く時は必ず「注)これはバ仮説です」の一言をつけようと思う。

さて、今日は記念すべき第1回。

 

「女教師のファッション」

 

仕事柄学校の先生に会うことが多い。実は今日も大量に会ってきた。

少し前にふと気がついた。40~50台の女の先生のファッションは極端だ。

一方の極は、ものすごくダサい。

もう一方の極は、ぶっ飛んでる。

ものすごくダサいファッションの代表は、よれよれのポロシャツにジャージのズボン(学校外で!)、顔はもちろんスッピン。

ぶっ飛んでるファッションは、例えば民族衣装みたいな格好だったり、娘さんのようなバルーンスカートだったり。

な、何故だ・・・??

 

学校という職場は、男と女が同じ仕事をする。

今でこそ女性の社会進出は当たり前だが、彼女たちが教師になったころは、働く女性の先駆けだったはずだ。

男と同等、否、それ以上のものを求められてきたかもしれない。

 

他の社会では長所となり得る「女らしさ」が、職場では邪魔になったかもしれない。

「あんなちゃらちゃらした先生にはうちの子を預けられません」と言われたかもしれない。

「A先生、お茶入れて」と、同僚の男教師に言われ、腹がたったかもしれない。

そして女教師Aは、スカートを捨て、ルージュを捨て、外見を飾らなくなっていった。

 

一方女教師Bは、もちろん教師としての仕事を完璧にこなしてきた。

「私、こんなに教師らしくないけど、仕事は完璧よ!」

彼女は外見で陰口を叩くような人間は、実力でひねり潰してやろうと思った。外見を磨き、仕事を頑張り・・・。

元来エネルギーの高い彼女のファッションは、人には真似ができない方向へ・・・。

 

学校という特殊な環境ゆえ、女教師はA、Bの方向へ強化を受けやすい。

そして中間層の少ない、極端なファッションとなるのであった。

 

以上、女教師のファッションのバ仮説。

もちろん、立証されていません。

 

 

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今日は症例検討会に参加した。

開始時間を間違えて30分早く着いてしまった。

同じおっちょこちょいでも、遅い方に間違えるのと違って、早い方に間違えるならば社会適応はよいのだから、これも得な話といえば得な話である。

この会は、なかなかのメンバーが集まり、1ケースにしっかり時間をかけて話し合うので、毎回毎回とても勉強になる。

かなりアットホームな雰囲気だが・・・、とはいっても偉い先生がいるし(偉い先生がアットホームなんだけれども)、新しいメンバーも少しづつ入るので、初めから”完全にリラックス”、というわけにはいかない。

 

2時間半の間に、1度短い休憩が入る。

この休憩時間というのが面白くて、いつも大事な意見は休憩時間に出てしまうのだ。

席を外している間に一番重要な話が始まってしまうので、おちおちトイレにも行けない(笑)。

休憩時間というリラックスさ加減が、人の口を柔らかくするのだろう。

今日は司会の先生が

「休憩時間は大事な話するの禁止!!」

と止めたけれど、禁止するのは難しかった。

少し緊張をほぐして、自由な意見を集めたい時は、休憩を入れるのもいい手かもしれない。

2週間居候していた後輩が帰り、夫は午前はサッカー、午後は友人の結婚式の二次会の打ち合わせに出かけたため、久しぶりに一人ぼっちで過ごしている。

とりあえず何か読もうと思って、本屋に行きウロウロするが、なかなか読みたい本が見つからない。

かなり長い時間ウロウロしたのち、今日のタイトルにあげた

「性別がない!」新井祥著 を発見。

半陰陽の漫画家が、私生活を面白おかしく4コマ漫画にしている。著者の友人や恋人はセクシャルマイノリティーの人が多く、その人たちの話も読んでいてとても楽しい。

実は有名ブログの「オカマだけどOLやってます」は、ほとんど毎日欠かさずチェックしているし(性同一性障害の方のブログ)、基本的に自分は、知らない世界を知りたいという”好奇心”から読み物を選んでいると思う。

 

私は今のところ、半陰陽の患者さんには会ったことがないし、様々なセクシャルマイノリティーの患者さんの診察もしたことがないし、はっきりセクシャルにマイノリティーだと知っている友人知人もいない。

もしセクシャルマイノリティーの患者さんとして診るとして、精神科医の前に現れるということは患者さんは何かを苦しんでいるわけだ。困ったことがなければ精神科医には用がないだろうから(戸籍を変えたりするために性同一性障害の診断などが必要であるといった”用事”があることを別にして)。

想像するに、患者さんの抱えている苦しみには

「マイノリティーであることの痛み」

というものがあるのではないだろうか。つまり人と違うことの痛み。今差別を受けてうるといった直接的な被害ではなく、過去の経験やその他内的に湧き出てくるもの。

セクシャルマイノリティーに限らず、ありのまま、そのままの自分でいることを前向きにとらえることは、いろんな診療場面で共通して患者さんに伝えたいことだ。

 

最後に。

一般市民としての私は、強すぎる好奇心で人を傷つけないようにすることが課題のひとつ。

本を書いている人にとっては、自己開示することが何かしらの意味を持っているのだろうけど、多くのマイノリティーの人たちは、好奇心にさらされること自体が辛いはずだろうから。

 

私は大事なことは、衝動的に決めることが多い。

衝動的とは、その時の「勘」とか「感情」を頼りにするということだ。

私の場合は、事前にいろんな情報を頭に詰め込んで考えているからこそ、最後にある決定打としての勘や感情が生まれているように思える。

選択することは何かしらの痛みを伴うことが多い。例えおいしいケーキを選んでいたとしても、一方のケーキを選ぶということは、もう一方のケーキを食べるチャンスを失うということだ。

その痛みを最小限にするために、最後は勢いをつける。

(ばしっとね。)

 

私は結婚する前に夫にこう言ったらしい。

「私って、勢いで、後ででやめとけばよかったと思うような選択をしてしまうことがあるから、そういう時は止めてね」

”私はこうあるべき”と、理想に燃えた選択をすると、大体忙しくなってしまう。

するとぐうたらな私は後悔する。

 

というわけで、「○○すべき」ばかりでは大変なので、なるべく自分に正直な人生を歩まなくちゃと、毎日のように思っている。

でも意外と、この「○○すべき」と、本質的にしたいことを区別するのが難しいのだ。

今回の決定は、”すべき”に振り回されず、”好奇心と新規探求傾向”で選んだと考えたい。

初めは新しいことにとまどったり、忙しさのあまり、ちょっぴり後悔するかもしれないけど。

そしてもしずっと続く後悔だったら、また新しく選択をしよう!

 そう思えば、自分の決めたことにあまり不安にならないでいられそうだ。

私が子どもの時の習い事の話。

そろばん、4級でやめた。

習字、3級でやめた。

エレクトーン、8級ぐらいでやめた。

お絵かき、先生と志向が合わずにすぐやめた。

いろんなものをやめてきた。

実は、中学の部活も3年の6月でやめている。

でも今は、”飯を食うため”の仕事は続けている。

 

子どもの患者さんを診察していると、保護者が、子どもが辛くて仕方がない何かをやめさせることに強い迷いを感じていることがある。

「大人になったらそんなことはできないから。」

「一度始めたことはやりとおさなければいけないから。」

・・・そして子どもは学校に行けなくなる。

子どもは、子ども時代にいろんなことを学ぶ。

自分が心から好きと思える趣味を探すことも、自分にとってマイナスと思える何かを勇気をもってやめることも、少数派の選択をすることも。

何かをやりとおすことは確かに学ぶことの1つかもしれないけれど、なにも最も辛いことを修行僧のように続けることを学ばなくてもいいのではないだろうか。

本質的に自分に必要なことって、けっこう続けられるもんだし。

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