重たい患者さんがたくさん入院している中、次々に新しい患者さんが入院するので、毎日ベットコントロールが大変です。
精神科のベットは、保護室・観察室・普通の1人部屋・大部屋とあって、患者さんの精神状態によってお部屋を使い分けるのです。
重症な患者さんをできればゆっくり保護室で様子を見たくても、もっと重い人が来たら明け渡さなければなりません。毎日トリアージトリアージ。
うちは入院を断らない病院で、それはすごい社会的な意義があることだけど、現場は大変です。
精神科救急の基幹病院としてシステムが出来上がると、システムにタダ乗りする人々もおります。
いままで何とか外来患者さんは自分の病院に入院させていた他所の病院も、「満床だからそちらでヨロシク」とシステムによっかかっちゃうし、いままで何とか昼間に入院病院を探していたクリニックも「夜になったら無条件でA病院が入院させてくれるから」と、病院探しをサボる。
うちの病院には毎日毎日新しい患者さんが入院して、医者はみんな残業です。
社会的意義の部分はモチベーションを支えるけど、タダ乗りされると腹が立ちます。
新職場に移っての蜜月期間が過ぎ、って蜜月って言うか、ハイになって乗り切る期間が過ぎ、テンションが普通に戻った。
ハイになっている間は、脳内でオピオイドやらもわんさと産生されてる感じだったから、楽しくもないようなことが楽しかった。今は普通に、楽しいことは楽しいし、普通なことは普通。
そしてむかつくことはむかつく。
テンションが戻ったのはいいこと。その方が安全だからね。
今日とても楽しかったのは、認知症の新患外来に陪席させてもらったこと。
発達障害をやっている人間にとっては、老人はおもしろいんだそうだ。
おもしろい、というのは語弊があるね。
とても興味深いと言い直そう。
発達障害は脳のある機能に障害を持って生まれる。
認知症は、後天的に脳のある機能に障害が生じる。
似たような症状が起きる。
例えば、前頭側頭型の認知症には、常同症状が出る。
デプロメールが効く。
おお、自閉症に似ている!!
認知症の場合は、画像や脳波に現れるものが多いから、発達障害よりは客観的な指標が多い。
それにしても人の精神症状は奥深い。
富士の樹海のように、いやあ、アマゾンのジャングルのように、奥深い。
ちなみに、ちとむかつくことはあったけど、書いても仕方がないようなことだな。
さて、またまた日曜日がやってきた。
一週間が早いなあ。今週は送別会その1があります。いよいよ卒業の日は近い。
今週は元同居人が泊まりに来るから、お部屋をキレイにしなければならない。
とりあえず「いつもの掃除」が7割くらい終わったところ。布団のシーツを変えたり、お風呂にカビキラーをしたら(この2つは「いつもより張り切ったお掃除」に分類される)、いつものお掃除残りの3割をする前に飽きてしまった。
このままお客さんを迎えたら、いつもより散らかって見えちゃうよ。
元同居人や親友は客扱いしない、という考え方もありますが。
今週は、BOSSから降ってきた仕事(講演の講師)の締め切りもある。やれやれ忙しいったら。
毎度のことだが、講演会は参っちゃう。準備するのも話をするのもしんどいから。
適当に今まで使ったレジュメを使いまわそう、と思って、昨日ようやく準備を始めたんだけど(ちなみに昨日まではなるべく考えないようにしていた)、今回はオーディエンスがどんな人たちなんかが良く分からんから、作りにくい。
会の中心メンバーは、どうやら高校の先生らしい。
でも、聞きに来る人は、小中の先生やら、親御さんもいるし、看護婦さんもいるんだってさ。
世話役をしている先生は、私が翻訳した(しかもBOSSと共訳)ペラペラの児童向けの本を「バイブル」といいやがった。
マナー辞典でも読み直して欲しい。
最近「おつきあいのマナーとコツ」という本を買ったんだけど(ものすごくいい本だから、いつか紹介します。軽めの女性のアスペの人にいいと思う)、「あまりに的外れなほめことばは、見え透いたお世辞に聞こえます」と書いてあったんだけど、まっさきにその先生の顔が浮かんだ。
さて、本論。
ASDの知識的整理を一通り書いて、どう話を持っていこうか考えていたら、なんとなく、二次障害の話をしたくなった。
思い切っていじめの話にも触れるよ。
私が親だったら、いじめの深刻さにもよるけど、いじめた子がおしっこちびるぐらいの勢いで本気で対応するのと、学校にも本気になってもらうための考えれる限りの手を尽くすのと、自分の子どもには学校を休ませるのとを、組み合わせると思います。
もちろん深刻さをつかむのは難しいと思うけど。
講演ではここまで大胆な言い方はしないけど、
・小さい頃からのコミュニケーション支援(辛いことを親に伝える方法を身につける、辛いことを親や先生に伝えられる信頼関係を築く)
・それによる早期発見、本気の対応、
・不登校も辞さない勇気を
という話し方をするつもり。
これでも結構大胆かな。
「いじめられる側にも問題がある」と教師が思っていたら、定型発達の子は必ず嗅ぎつけますからね。
だから、
・支援者は、障害特性の理解を!
これもむちゃくちゃ大事だ。
がんばりまふ。
<追記>
ものすごい愚痴です。
今度の講演のスライド、ほぼ完成させました。
ホッとしたのもつかの間、さっきメールを開いたら、主催者側から内容についてのオーダーが。
え??今さらですか??
私に寝るなと?私に寝ずに原稿を作り変えろと??
幸い今さらオーダーされた内容は、私がもともと作成したレジュメでまかなえたのですが、このタイミングで内容のオーダーするなんて、無神経だと思います。
私のムカつきのツボを見事に押してくれて、楽しい気分が一気に吹っ飛びました。
まあ、ペラペラな児童書をバイブルとのたまう人ですから、悪気はないのでしょう。
夫に愚痴ったら、「その人は見通したてずに仕事してるんだよ」と、鋭いご指摘が。
私、「先日打ち合わせいたしましたとおり」という言葉が2回も出てくる、カンのいい人が読んだら嫌味な返事を今さっき送りつけたところです。
でも、絶対カンが鈍い人だから、100%嫌味は通じねえだろうな。
もうすぐ、うっかりパネラーをひき受けてしまったユースシンポジウムがやってくる。課題がある若者をどう支えていくか、というのがテーマで、私は発達障害の専門家として呼ばれている。
確かに発達障害は今の仕事のメインであるけど、パネルディスカッションなんてやったことないし、それが現代の若者全般の課題とどう関わってくるのかも、すごく難しい問題だし。
パネルディスカッションをじっくりした後、さらに分科会なのだ。うっかりひき受けるんじゃなかった。全くもって、うっかりな私にがっかりだ。
パネリストは最初、掴みに10分話をするので、原稿を作ってみた。
聴衆は若者に関心が高い一般市民。
よろしければ、みなさんもご一読&コメントをよろぺこ。しゃべり原稿なので、日本語表現がおかしいとか、繰り返しが多いとかはあまりお気になさらないで♪
ちなみに昨晩夫に「目的が分からない」「表現が分かりにくい」とかなりダメだしをくらい、修正しましたが、修正後の原稿を見せようとしたら寝てて、アドバイスしてくれてた後半も寝言だったんじゃないかと言う疑惑も湧いてきたわけであります。
こんにちは、私は某所で精神科医をしているニャムと申します。シンポジウムは「ユース」が対象であって、私が普段診察しているのは、2つ3つの幼児さん、小学生など子どもが中心なんです。でも、某所では18歳までが診療対象ですから、中学生高校生と「若者」も診察しています。普段は、発達障害、虐待関連、子どもの神経症などを診療しています。私はあまり若者全般のことは詳しくないですが、発達障害や精神疾患という窓を通して若者のことを見て行きたいと思っています。
発達障害とは何か:生まれつき定型発達の人とは違う発達の仕方をしていく(スピード、量、ベクトルが違う)人たちのことで、発達「障害」、というからにはその特性のために困りを感じている人たちのこと、と定義させていただきます。
発達障害には、精神遅滞、自閉症スペクトラム、ADHD、学習障害、それから運動発達の障害も含まれます。私は精神科医なので、運動発達の遅れに関しては専門外ですから、今日の話からは除外させてもらいますね。
最近よく話題になっているのは、精神遅滞以外の発達障害ですよね。
精神発達遅滞は今までも支援の対象として教育や福祉の分野で配慮されてきたけれど(療育とか、年金とか。十分じゃないけど。)、知的な遅れのない発達障害の人、つまり自閉症で知的障害のない人だとか(高機能自閉症といいます)、ADHDの人に対しては、教育や福祉施策ほとんどなんにもありませんでした。これではいけない、と、草の根的な活動も積み重なり、本やTVでの紹介も増え、発達障害者支援法もでき、今、まさに時代が動いている、そんな状況だからだと思います。
私たちが「性格」と呼んでいるものがあります。よく患者さんの親御さんなんかに、私が発達障害の障害特性だな、と思うようなことを「うちの子こういう性格なんです」と説明されることがあります。
例えば、診察室で一言もしゃべられなくなっちゃった、としましょう。
ご両親はシャイな性格だからしゃべられない、と考えている。こちらは、あ、コミュニケーション障害があるのかな、と考える。
で、性格ってなんなのかな、と、いつも悩むんですが、今私が考えている定義は、「その人の持って生まれた特性と、環境からの相互作用で、年月をかけて形作られる、感じ方や表現の仕方の個性」です。だから、障害特性も、性格を形作る1つの要素ではあります。
さっきのしゃべられないお子さんの例えにもどると、シャイだから慣れるまでのんびり待とう、というのもひとつの考え方だけど、コミュニケーション障害として捉えて、必要なツールの利用を考えたら、すごくその子のメリットになるかもしれないんです。
ひとりひとりが違う人間なのにわざわざ診断したり、性格でもいいじゃないかと思うところをわざわざ障害特性と説明する、なぜ? それは結局、支援に結びつけるきっかけだからかな、と思っています。
医者の仕事は、診断し、親御さんやご本人や、学校の先生などご本人をとりまく方たちに、「コツ」をお伝えすることですし、「コツ」をつかむために障害特性を理解していただくことのお手伝い、と思っています。
そして実際にご本人と一緒に生活しているみなさんは、コツを生かして、ご本人に必要なことを教えてあげたり、環境を整えたり、もちろん本人を理解し受け止める、ということが支援ですよね。
周囲にずっと否定され続けて生きてきたのか、それとも正しく評価され、必要なことを教えてもらいながら生きてきたのかでは、その先も全然違う人生になると思うのです。
持って生まれ、生涯持ち続ける「特性」と、生れ落ちてからの人生で色々経験し「学習」して身につけていくこと、そのどちらも配慮することが大切だと思っています。
発達障害の人というのは少数派ですから、多数派にフィットするように作られた世の中で苦労している人もいます。
例えば学校。学校は、みんな同じ教科書を用いて、みんな同じ給食を食べて、みんな同じ服を着て、みんな同じ歌を歌って、と、同じことをするのが最も多い環境かな、と思います。みんなと同じ授業では分からない子、みんなと同じ給食が食べられない子、みんなと同じ服が着られない子(これ、ほんとにいるんです。発達障害の人の中には、感覚過敏っていって、ほかの人には全く問題ない感覚が、ものすごく不快で、パニックになっちゃう人もいるんです)、がいるわけです。すると、やっぱりとっても大変ですよね。外国に一人ぼっちで放り出された感じに似ているのかな、とよく例えたりします。
違う、違う、と思いながら、必死で合わせて大きくなった人もいるし、どうしてみんなとおんなじにできないんだろうって、すごく悩んでいる人もいるし、阻害されて傷つけられてしまう人もいる。
もちろん、違うんだけど、それが尊重されて生きてきて、特に困ることなくハッピーに暮らしている人もいると思いますよ。
一番いいたいことは、同じように見えても実はいろんな人がいるということで、みんなが一緒じゃなければいけない、ということにどうぞ縛られず、自分の脳にやさしく、というか、違ってもいいんじゃないかな、と思ってみてほしい、ということです。せっかくユニークなタイプに生まれてきたのだから、それを評価もし、ありのままの自分を好きでいて欲しい、ということです。よりハッピーに生活するために、必要な支援を受けたり、ツールを利用したりすることができるといいな、と思っています。
臨床力を上げたい。研修医時代からずっと続く願いだ。
次の転職ももっと医者力をつけるためだ。他の要素もあるけど。
精神科臨床の中で非常に大切なことの1つが
「何をもってゴールとするか見極めること」
だと思う。短期目標、長期目標によっても違うと思うけど、その患者さんにとっては就労がゴールなのか、デイケアがゴールなのか、在宅で安定することなのか、はたまた入院生活を安定して送ることがゴールなのか。
患者さんが高すぎる目標を掲げている時は、行き詰って落ち込んで、病気を再燃させてしまったりするから要注意だ。
もちろん、行動療法的プログラムを組んで、より高いストレスレベルの社会復帰をさせていく場合もある。
ものすごく難しいことだけど、大事なことだ。