大した話じゃありませんよ!
前置きですが、私は動物学とか人類学とかにちょっと憧れがあって、NHKのドキュメントを見たり、そのての本を読んだりしてはかぶれてるんです。
医学って、ほんと、どうしようもなく実学で、学んだことが即臨床につながってて、それはそれでやりがいがあるんだけど、たまーに、「ああ、誰の役にも立たないようなことをしたい!」と思っちゃったりするのです。
私の将来の夢は、誰の役にも立たなさそうなことを勉強しに、もう一回大学生になることです(笑)
本題に入ります。
なんでも、年子が産めるようになったのは、ヒトが農耕を始めて定住生活を送るようになったからだそうです。
私たち人類のながーい歴史を考えると、農耕を始めたのもほんの1万年前、つい最近のことです。
それまでは何百万年も狩猟・採集生活をしていたわけです。
(ちなみに前書いたヤノマミ族は、現在も狩猟・採集生活をしております)
狩猟・採取生活では、母親は赤ちゃんをつねに体にぶら下げて、頻回授乳しながら移動して食べ物を探していました。そのためホルモンの関係で、乳離れする3歳ぐらいまでは排卵が起きなかったそうです。
なるほどおチビ2人連れての移動生活は大変だから、そうならないように体はできているのですね。
そんな昔に思いをはせると、娘が欲っするがままにおっぱいあげたらいいや、という気分になって参ります。
「布オムツの方がいい」と言われても、オムツをするようになったのもつい最近のことでしょ、と思えてきます。
多分、昔のヒトははだかんぼうの赤ちゃんを紐で体にくくりつけて、寒い時は上から毛皮をかぶっていたんじゃないかな。おしっこは下に落ちるから、意外とお尻はさらっとしてたんじゃないかな、なんて想像してみるわけです。
布オムツも紙オムツも大差なく思えてきます。
そうそう、最近は虫歯菌をうつさないよう、赤ちゃんにチュウしちゃだめ、という話もよく聞きますが、親が子どもにチュウしたいというのは本能的欲求のように思えます。昔のヒトもチュウチュウしていたでしょうよ。
ならば意味がある行為なのでは?
そこで私は、大事な常在菌やら、子どものうちにうつっといたほうがいい菌やらを母が娘に渡してるんじゃないかと仮説をたてました。虫歯菌はちょっと都合が悪いだけで。
うん、そうに違いない。
と、成功した種であるホモサピエンス(私のこと)は、自信満々に子どもにチュウをするわけです。
昔はよかった族のいう昔なんて、屁みたいに最近のこと、と思えば、少し子育てに余裕が持てるのでは、という提案でした。
子育てに限らず何か苦しいことがあったら、昔のヒトならどうしてたかな、と考えてみるのもいいかな。
昨日は
「絵本で子育て」。
私は本が好きだし、娘と絵本を楽しみたいから、読み聞かせのコツとか、おすすめの名作絵本とか知りたくて参加した。
もちろん、そういう話が大半だった。
でも・・・というべきか、やはり・・・とつなぐべきか。
「紙オムツより布オムツの方が赤ちゃんとの基本的信頼感が築きやすい」
「TVを見せすぎると子どもの言葉が遅れる」
どうしてもこういう話を聞かされてしまうのだ。
どちらも、上の世代の人たちの
「昔の子育てのほうがよかった」
という懐古趣味的な感情が先にあって、それをもっともらしい理論でオブラートに包んで若いお母さんに語られるのだ。
なんでも、布オムツの方が「おかーさん!気持ち悪いよう、オムツ替えてよう」という赤ちゃんの訴えに母親が応えてあげる機会が増えるからいいんだそうだ。
TVに関しては、例の2004年の小児科医会の提言が引用されていた。
提言自体が研究デザインに問題があって感情的すぎるのに、それを嬉々として引用する人々の断言ぶりは推してしるべしである。
私自身の印象(精神科医として、母ちゃんとして)としては、母親が子どもと楽しい時間を過ごすことは、子どもの健やかな成長にとってとてもいいことだと思う。
母親が子どもと楽しく過ごすには、母親が安定しやすい環境にあることが必要だ。
布オムツは結構大変だ。オムツ替えの頻度も上がるし、お尻はかぶれやすいし、洗濯物も増える。
今、子育てしんどいなぁ、と思っている母親に、もうひとつ重荷をしょわして、母親が笑えなくなったらかえって困っちゃうんじゃないかと思う。
昔はみんなしていた、と言われるかもしれないけど、昔は紙オムツがなかったのだから、「あるのに使わない」のとは違うし、そもそも家族形態やら地域生活やら、もっともっといろいろ違うんだから、単純に比べられないのだ。
TV、確かに、そればかりでは、という気はする。
子どもにはいろいろなコトに出会うチャンスを与えてあげたいから。
ちなみに先述の小児科医会の提言には「授乳中にはTVを消せ」という項目がある。
私は今専業主婦だから、子どもと関わる時間は24時間だし、お笑い芸人並みのハイテンションで遊んだり、お歌を歌ったり、おんぶしてだっこして、それはそれはかわいがっておりますわ。
うちの娘、おっぱい飲んでいる時間(と寝てる時間)が一番静かなんですわ。
このつかの間の静かな時間、自由に使わせてもらえませんか。
「絵本を子どもに読み聞かせると、とても楽しい時間が過ごせますよ」
と
「TVで子育てしちゃだめ!」
一緒に言う必要あるのかな。
絵本の読み聞かせするときは、自然にTV消すのにな。
ところで!
懐古趣味や浅薄理論で腹が立ったり不安になった時は、太古の人類に立ち返ることをお勧めしております。
そのやり方は次回!
ベネッセ主催の女性専用のネット掲示板を私はよく見ているのですが、最近、人工妊娠中絶に関して活発に意見が交わされていました。(はっきり言うとスレッドが荒れてたんだけど)
私も思うところありコメントをしたくなったのですが、じっくり読んでもらわないと意図が伝わりにくいので(さらにスレッドが荒れそう!)、自分のブログに書くことにしました。
先日BSで、ベネズエラの原住民族であるヤノマミ族のドキュメント番組をやっていました。
若いヤノマミ族の女性が産気づいてからジャングルに行き、村の女性に見守られながら赤ちゃんを産み落とします。赤ちゃんはへその緒のついた状態で地面に横たえられています。母親は抱き上げようとせず、どこか他人事のように赤ちゃんを見下ろしています。
なんでも、ヤノマミにとって胎児は精霊で、生んだばかりの赤ちゃんを精霊のまま神様にお返しするか、へその緒を切って「人」にするかは、母親が決めるんだそうです。母親以外の女たちは見守るだけ(男は出産に関わることをしません)。
赤ちゃんがだんだん白くなっていくのにやきもきしながらTVを見ていましたが、結局その子は人となり、母親がへその緒を切って抱き上げました。
ヤノマミの女たちは、子どものころからこの風景を見て育ちます。
精霊か、人か、母親が選別する姿を。
ここで感じること。
受精から着床、胎児となり出産、へその緒を切るまで、いつから人になるか、それは絶対的な答えがあるものではなく、文化的に決められるものだということ。
ヤノマミにとってはへその緒を切ってからがその時なわけで、私には違和感があるけど、それは私が日本人だからでしょう。
(想像するに、生まれてすぐに赤ちゃんが亡くなる悲しみを減じたり、体の弱い個体を淘汰したり、母親となる精神的な準備期間を設けたり、ヤノマミ族の生活の中では、理にかなった時期なのだと思いますが)
日本では受精した瞬間から人と思うのが多数派なんでしょうか?
妊娠中にだんだん人に近づいていく、と感じる人も多いように思います。
今の日本には多様な価値観があるから、文化としての決まった答えがありません。
ちなみに私は、無邪気に中絶をすることも、むやみと重い十字架を背負わせようとすることも反対です。
生まれた子どもが不幸になるような、やむをえない事情がある場合には、中絶を選ぶこともあるのかもしれません。
母親が自分自身で最終的な決断を下し(父親の意見は参考にするけれど、出産する前までは母親の意見が優先される)、そして下した結論に勇気を持って生きていけるよう周りは必要に応じてサポートする、それが今の私の考えです。
うちのちゃむちゃんは生まれつき右胸から背中にかけて、大きな血管腫(赤あざ) がある。
出産直後分娩台の上で、助産師さんが産科の先生に報告するのが聞こえた。先生は、無事に生まれてきたのだからそれで十分、といった、とてもおおらかな反応だった。
実際そうだし。
産科に入院中は皮膚科の教科書を持って来てないし(当たり前!)、私の皮膚科の知識は限られている上に偏っているので、昔国家試験対策で勉強した血管腫を合併する難しい病気(=頻度の低い病気)を思い出して、後からちょっと不安になってしまった。
退院してから、思う存分教科書を読んだりネットで調べ、多分「単純性血管腫」ということが分かり、ほっとした。
単純性血管腫は、100人に1人程度の高頻度に見られる血管奇形で、「腫」とついているが腫瘍ではない。残念ながら生涯消えることはないが、悪さをすることもないからだ。
要は美容上の問題である。
程度にもよるかもしれないが、美容上は健康上に比べ、問題が小さい。 単純性血管腫の治療は、ほとんどの場合レーザーで行う。体の成長とともに血管腫も育つので、小さいうちにやると、治療する面積の絶対量は少なくてすむし、幼い時のほうが血管腫の位置が浅いからか、若干治療成績もいいようである(レーザーは深さ一ミリ程度しか届かないらしい)。 右胸全体、右上腕の内側部(ここは小さい)、右背上部にかけて、ぶどう酒をこぼしたようにみえる(単純性血管腫の別名が「ぶどう酒様~」)。
親からみると、なんというか、それも含めてギザカワユス、ギガントカワユスなのだが、親との2者関係で生きていくのもほんの短い間だけだし、他人との関係を築く中で、ちゃむが将来どう受け止めるかを想像しなければならない。
小さい子どものころは、周りの子に無邪気にからかわれることもあるだろう。
それが高じて小学生ぐらいには「水着になるの、嫌だな」と思っているかも。
思春期には「大人になって胸を見せたくないから、結婚したくない」と思いつめるかも。
でも大人になったら「あざも私の個性のひとつ」と思うかな?そうであって欲しいな。でもこれも押しつけかな?
これは、本人が選ぶまで待つか、本人の選択を親が代理するか、という命題。
私たち夫婦の結論は、「きっと大人になるまでのどこかで治療したいと思うだろうから、それならばベターといわれる時期にやろうか」というものになった。
ちゃむの血管腫は結構大きいので、治療をするなら入院して全身麻酔をかけることになる。
親はちゃんと「代理で」選択したのか、それとも子どもから選択権をうばっちゃったのか。
(それは多分渾然一体となってしまって、もはや区別がつかないのだ!)
これからも代理で選択する機会は多いだろうけど、子どもの成長に合わせてちゃんと手を引いて行かなければならない。
そんなことを考えたり。
…頭でっかちか?
犬のような子育てを心がけているのだけど。
赤ちゃんをスリングで前抱きして、赤ちゃんごとユニクロの男物のダウンジャケット(夫が通販で買ったら袖が短かった)で身をくるんで、近所のスーパーに行く自分の姿は、知り合いには見られたくないけど。
一方、家にいる時間はとても長いので、前々から欲しい欲しいと思っていたソファーを新調することにした。
新婚の時に買った白い革のソファーは、全くケアしなかったから7年でぼろぼろになってしまっていた。黒ずんでひび割れててしまった。
白買うなよ、自分の性格考えな、と、7年前の私に突っ込みたい。
年末、待ちに待った夫の休暇、その初日、私はちゃむおいて一路大塚家具へ。
毎日毎日汚いソファーを眺めていたストレスが高じたのか、出産後初めてT市を出た開放感がほとばしったのか。
そして私は物欲を炸裂させ、予算を大幅にオーバーした買い物をしてしまったのだった。
いい本を読んだりおいしいものを食べたり、世の中には楽しいことはたくさんあるけれど、買い物ももちろんその中のひとつだと思う。
快楽が伴うから、そりゃ依存する人もいる。
1月4日に新しいソファーは我が家へやってきて、私はそこで授乳したり、TVを見たり、昼寝をしたりしながら、幸せな買い物ができた喜びをかみしめているのだった。
ちなみに、今度は濃茶の革にしました。
あ、相変わらずコーヒーテーブルは買ってません。
懐かしいちゃぶ台を使ってます。