先週の日曜日に、愛娘ちゃむは1歳の誕生日を迎え、私は実家から両親と姉夫婦を呼び、(私にしては)盛大なお誕生日会をした。
私はその週の水曜日から某学会があり、副事務局長としての仕事のラストスパート中、夫はその日曜日を空けるために朝の4時まで働いて時間を作った。
ちゃむはまだ誕生日が何かを分らない年齢だから、他の日にパーティーをしてもよかったのだけど、そうやって子どものことを後回しにする両親になりたくないな、と思ったので、特に夫には無理を強いたが、お誕生日当日にお誕生会を開催することにした。
母が鯛を焼いてきてくれたおかげで食卓はとても華やかになった。
姉はミキハウスの真っ赤な洋服をプレゼントしてくれたのだが、ちゃむは真っ赤なのが初めてだからか、とても喜んで、洋服と、自分がすっぽり入るくらいの大きさのミキハウスの紙袋(真っ赤)を引きずって歩き、周りの人を幸せにしてくれた。
つまりちゃむは、1歳のお誕生日に、大きな荷物を持って歩けるぐらいすくすくと成長できたわけで、それはもう、神様に感謝するしかないのだ。
そして火曜日、私はちゃむをつれて、搬入作業や直前ミーティングの真っ最中の総会事務局に行き、某先輩医師とミーティング。
ちゃむは興奮して広い廊下を走り回り、それを追いかけつつのこの上なくバタバタとしたミーティングとなったが、先輩に「うん、イメージ出来た」と、高評価をいただき、ほっとした。
同日夫。夫は前の会社の最後の勤務日。連日終電を逃し、タクシーで帰宅するような日々であったが、さすがに早めに終わるだろうと思っていたのに、結局仕事が終わったのは翌朝3時。
あいさつも出来ずに泥のように疲れ果てて帰宅。明日から3日間、初めての本格的母子分離だが、
「オレに任せて!」
の一言を信じることに。
数時間後、青い顔をして眠る夫の顔を見ながら、
「会社、やめてよかったな」
と、全てを前向きにとらえることとし、地蔵のような安らかな顔で眠りつづけるの娘を託して、久しぶりにスーツなどを着て、とんがったパンプスを履いて、総会会場へ向かうのであった。
ベネッセ主催の女性専用のネット掲示板を私はよく見ているのですが、最近、人工妊娠中絶に関して活発に意見が交わされていました。(はっきり言うとスレッドが荒れてたんだけど)
私も思うところありコメントをしたくなったのですが、じっくり読んでもらわないと意図が伝わりにくいので(さらにスレッドが荒れそう!)、自分のブログに書くことにしました。
先日BSで、ベネズエラの原住民族であるヤノマミ族のドキュメント番組をやっていました。
若いヤノマミ族の女性が産気づいてからジャングルに行き、村の女性に見守られながら赤ちゃんを産み落とします。赤ちゃんはへその緒のついた状態で地面に横たえられています。母親は抱き上げようとせず、どこか他人事のように赤ちゃんを見下ろしています。
なんでも、ヤノマミにとって胎児は精霊で、生んだばかりの赤ちゃんを精霊のまま神様にお返しするか、へその緒を切って「人」にするかは、母親が決めるんだそうです。母親以外の女たちは見守るだけ(男は出産に関わることをしません)。
赤ちゃんがだんだん白くなっていくのにやきもきしながらTVを見ていましたが、結局その子は人となり、母親がへその緒を切って抱き上げました。
ヤノマミの女たちは、子どものころからこの風景を見て育ちます。
精霊か、人か、母親が選別する姿を。
ここで感じること。
受精から着床、胎児となり出産、へその緒を切るまで、いつから人になるか、それは絶対的な答えがあるものではなく、文化的に決められるものだということ。
ヤノマミにとってはへその緒を切ってからがその時なわけで、私には違和感があるけど、それは私が日本人だからでしょう。
(想像するに、生まれてすぐに赤ちゃんが亡くなる悲しみを減じたり、体の弱い個体を淘汰したり、母親となる精神的な準備期間を設けたり、ヤノマミ族の生活の中では、理にかなった時期なのだと思いますが)
日本では受精した瞬間から人と思うのが多数派なんでしょうか?
妊娠中にだんだん人に近づいていく、と感じる人も多いように思います。
今の日本には多様な価値観があるから、文化としての決まった答えがありません。
ちなみに私は、無邪気に中絶をすることも、むやみと重い十字架を背負わせようとすることも反対です。
生まれた子どもが不幸になるような、やむをえない事情がある場合には、中絶を選ぶこともあるのかもしれません。
母親が自分自身で最終的な決断を下し(父親の意見は参考にするけれど、出産する前までは母親の意見が優先される)、そして下した結論に勇気を持って生きていけるよう周りは必要に応じてサポートする、それが今の私の考えです。
「ゲリラ雨」というそうで。
さっきまですごい大雨と雷だった。
毎日のように天気が大崩れするので、まあいいか、と思って洗濯物干していたら、雨風の勢いで、干竿から叩き落されてびしょびしょ。
雨が止んだのでそろそろ買い物にでも、と思っているのだが、まだ少し離れたところから雷鳴が・・・。もう少しまって、家を出るのはせめて警報が解除されてからにしようかな。
一人身、もとい、妊娠する前なら、たいていなことは平気だったから、濡れたら濡れっぱなしでよかったのだけど、二人身、もとい、お腹に赤ちゃんがいるかと思うと、転んだり冷えたりする機会は避けようと保守的になるのであった。
ところで今朝は(震度3でしたが)地震で目覚めた。天災に怯える日々である。
地震はともかく、気候の変化が長期的な地球温暖化に関係しておいるならば、今後どんどん事態が厳しくなって、それこそ日本で食料難とかが起きるならば、こんなリスキーな時代に子どもを産み落としていいものか、と、グローバルな心配もしてしまうのであった。
とはいえ、もうこんなに膨れたお腹をしてジタバタしても仕方ないわけで。
どんな時代であっても、キミには、力強く、楽しく生きて欲しいと願うのだ。
給料泥棒な私は本日有給消化中。
夕方、傘をさして鼻歌交じりに近所のスーパーに向かっていたら、バッシャーン、とずぶ濡れ。
一瞬何が起きたか分からんかったわい。
ベタなコントなみに半身ずぶ濡れ。
車が器用に水溜りに最高の角度、最大限のスピードで突っ込み、ありえない水量を私にかけて去っていったのだ。
そういう選手権あったら、間違いなく優勝だね。
一瞬の間をおいて口汚い罵声を浴びせかけたものの(ああいうとき、思いの外汚い言葉が出て来るんだよな)、当然車は10m以上先を走っており、ドライバーには何のバツを与えることもできなかった。
まあ、聞こえてて怖い人が降りてきても困るしな、と、小市民な私は自分をなぐさめつつ、再びスーパーに向かい始めた。
スーパーって冷房効いてるから寒いし。
まるっきり平和な一日はないもんだ。
先日、最寄り駅のエレベーターで同乗した男子(推定4歳)に、「かわいい」と言われた。
あまりにも唐突だったので、まずは何が起こったのか把握するのに2秒ほどかかり、その後私の100倍はかわいいであろう4歳男性に、
「お上手ね」
と返してしまった。
するとその子のおばあちゃんが
「すいません。この子若い女の人を見ると、みんなに言っちゃうんです。」
と恐縮して謝る。
エレベーターの中、ほどほどに気まずい。
私は児童精神科医なので、誰にでも「かわいい」と言っちゃう子どもに対しては、ついつい余計な心配をしてしまうわけだが、それは置いておいて、
ばあさんよ。
わざわざそんなこと言わんでも。
これが「ぶす!」とか悪口だったら、何が何でも
「この子みんなに言っちゃうんです、そりゃあもう、見る人見る人に!」
とか言わなきゃならないだろうが、かわいいと言ってるんなら、私と一緒に笑っときゃいいじゃんかよ。
誰にでもかわいいと言ってしまう4歳児。
A 突然知らない人に「かわいい」と言ってはいけない理由を子どもに分るように教える
B そのうち分かるだろうとほっとく
C そのうち分らなくても、面白いのでほっとく
さて正解は?
→全部
久しぶりに「かわいい」と言われて例え相手が4歳児でもちょろっと喜んでしまう30台の女医に水を差すおばあさんに。
A 社会性が乏しい、と苦言する
B そのうち分るだろうとほっとく
C そのうち分らなくても、おばあさんは困らないのでほっとく
さて正解は?
→Cだな
未熟、という意味以外で「かわいい」なんて言われなくなった今日この頃。